『帰ってきたヒトラー』

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 封切日、1日7回の上映。金曜の夜(正確には土曜日の未明)夜1時からの回。非常に上映館が少ない中、致し方なくまたゴジラ付き映画館に行って観てきました。時間がなく、自転車で行ったら、10分程で現地に到着しました。ギリギリのつもりで出ましたが、地下駐輪場に自転車を止めて劇場に上がっても、例のイカレ警備員の存在に気がつくぐらいに時間的余裕がありました。

 なぜか20代前半と思しきオタク系の男ばかり20人ぐらい。女性は30代前半のカップルのたった一人のみと言う、特殊な客層構成です。非常に偏った層の男性陣は、一般的な笑いのタイミングとはズレた所で一斉に笑い、現在のドイツ政党の色々な性格が劇中で描写されると、「ほぉ」だの「おお」だのリアクションをするぐらいに、ドイツ語やドイツの社会情勢に精通しているようです。この作品のネタなどから考えて、関連するテーマの同一ゼミの大学生などが課題として見に来ているのかもと考えました。

 現在のドイツにヒトラーがタイムスリップして来て、ヒトラーの真似をする芸人だと思われ、テレビに登場するようになって、一気に大人気になるという設定自体が面白く、是非、観に行ってみようと思っていました。映画が始まって真っ先に気づいたのは、この映画がドイツ映画であることです。『ディクテーター…』のような英語で成り立っている映画かと漠然と思っていたのですが、もしかすると人生で初めて観たドイツ映画かと疑りながら鑑賞することとなりました。

 映画の原題は『Er ist wieder da』でウィキに拠れば「彼が帰ってきた」と言う意味だそうです。少々時間のあったロビーのグッズ売場を見ると、原作の小説の翻訳版が上下巻で並んでいました。2012年に発表され、大ヒットした風刺小説とのことでした。或る意味、携帯小説の映画化のような、既存人気コンテンツの映画化であることを、映画館に着いてから知った形です。

 タイムスリップの経緯もよく分からず、物語は唐突に始まります。一応、真相を探ろうとした劇中唯一の人物が記録映像を調べなおしてみた際には、『ターミネーター』シリーズ的な、プラズマを発生させる黒い大きな球体のような閉鎖空間がいきなり発生して、そこからヒトラーが現れています。ただ、ターミネーターなどのように『デッドプール』が嘲った「ヒーロー着地」のポーズで出て来たのではなく、大地に寝転がった状態です。

 物語の展開を見ると、ドイツ各所に出掛けた先のヒトラーの態度は何か温く、『アイアン・スカイ』のようなナチス・ドイツのネタの馬鹿笑いもなく、『ディクテーター…』のような強烈な風刺があるというほどでもありません。少なくとも、ドイツ語が分かり、ドイツの政党の立ち位置ぐらいが分からないと、この印象は大きく変わらないものと思います。それでも、凄い作品です。何がどう凄いかと言うと、歴史のタブーとなっている人物を真っ向取り上げ、笑いネタにしてしまっている事実そのものと、その原作小説が大ヒットしたという事実です。

 劇中でヒトラー芸人だと思われているヒトラーは、路上でも一緒に写メを取られることばかりの大人気で、ただ歩き回っているだけで、周囲の人々が笑いながら近寄ってきます。先日観たばかりの『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』ではドイツ国民の歴史的反省の態度がやたらに彼らの美徳として紹介されていますが、少なくとも、本作ではマイケル・ムーアの主張は、非常に偏ったものであったのか、針小棒大のものであったのか、何かが乖離の原因として疑われます。

 無論、芸人ヒトラーを面と向かって非難してくる人間もいます。最も言葉レベルでひどい中傷と排斥を示したのが、嘗てヒトラーに家族を皆殺しにされたユダヤ人の老婆です。しかし、それ以上に、ヒトラーを糾弾し、ヒトラーを実際に闇討ちにする程の情熱を持った人々がいました。それはネオナチの面子です。優生学的発想に基づいた民族の浄化を押し進めたヒトラーが、移民の流入反対の立場のネオナチに襲撃されるというのは、一見おかしな構図に見えます。

 本来、ナチス・ドイツは「国家社会主義ドイツ労働者党 」なので、左側の人々であったのに対して、ネオナチが極右なら、襲撃も当然という風な見方もできます。しかし、それ以上に、日本で「右傾化政治家ネタ」を前面に展開した鳥肌実も、右翼サイドからかなり攻撃されたことを振り返ると全く同じ構図と理解できます。考えてみると、今回の周囲の人々のヒトラー芸人を見る目は、日本において鳥肌実を見る目と構造的には同じはずです。

 しかし、鳥肌実にはモデルとなっている誰もが知っている「右傾化政治家」が存在しません。それに対して、ヒトラーは、優れたインフレ対策・失業対策などの評価も全く霞んでしまうほどの、所謂ホロコーストで数百万の人命を無為に奪った歴史的人物です。スターリンや毛沢東も殺戮にかけて半端ではありませんが、ヒトラーは群を抜いていると考えられます。そのヒトラーの物真似芸人がドイツで登場しても、それを日本人の類似体験に比較することは難しいと思えるほどの、無謀な設定です。

 敢えて想定すると、犠牲者数は全く異なりますが、麻原彰晃芸人を想像することぐらいでしょうか。そっくりで、終始本人になり切って、社会を批判し、イミフで陳腐な教義を延々昼間のテレビで垂れ流す芸人がいたら、日本の世間の反応がどうであるかを議論する余地さえないものと思います。それぐらいの物凄いことを小説でやって映画化までするという流れ自体に驚愕させられます。

 言語や文化がよく分かっていないからと言うのも無視できない要因ですが、先述の通り、笑いそのものは温い感じがします。とんでもない物凄い映画化も映画化自体の問題であって、劇中の何かから感じる魅力になっている訳ではありません。

 寧ろ、この映画の最大の魅力は、シリアからのEUへの移民に関わる時事問題などを積極的に採り入れ、それに対して、1945年当時のヒトラーの主張が現在のドイツ国民の考えと重なる所が大きいことが、温く連続する笑いの中で明確に述べられてしまっていることでしょう。

 ヒトラー程の愛国心を言葉に出す者もいず、ヒトラー程にマスメディアの既存コンテンツのくだらなさをあからさまにする者もいない状況の中で、テレビとYouTubeの動画を駆使して、人心の掌握を着々とヒトラーは進めて行きます。ヒトラーの外見への着目とヒトラーの主張への強い共感の間にあるべき、ヒトラーへの嫌悪や拒絶が一部の例外を除いて、ほとんど発生することなく、視聴者はヒトラーに魅入られていきます。原作の風刺小説の風刺の強烈さが想像されます。

 ヒトラーの演説は、今私が趣味と実益を兼ねて取り組む催眠技術の勉強の中で、「緊張系催眠」と呼ばれる催眠現象であり、その結果聴衆はヒトラーの主張を抵抗なく受け容れ、ヒトラーを総統に選んだのだと言われていることを知りました。私もレクチャーやプレゼンを長時間行なうと、妙に聞き手の満足度が高い結果になり、それが、「緊張系催眠」であることを比較的最近自覚して今に至っています。

 惜しまれるのは、この映画の中に私も書籍で学んでみた、ヒトラーの長い演説が含まれていないことです。彼を演じる役者も、ヒトラーの演説のみならず、幾つもの特徴的仕草などをマスターして演じているようです。それなのに、演説は長くても2分程で終わってしまうのはもったいないように見えます。

 日本の戦争責任の取り方を考える時、ドイツはよく引き合いに出されますが、私は、「自分たちも「ナチス・ドイツ」によって被害を蒙った被害者である」と言うドイツの姿勢に共感できないように思っています。仮に『帰ってきた東条英機』と言う映画が同設定でできても、決してこの映画のような秀逸な風刺を日本で実現することはできないであろうことからも、この違いは明らかになりそうです。この映画を楽しむには、その辺りまできちんと勉強しなおしてから挑まねばならないのかもしれません。

 そこまでするほどの関心をもてるテーマでもないので、DVD購入は今一つのらないのですが、この傍若無人な作品の位置づけが記念モノなので、その観点でギリギリ購入してしまうかもしれません。